十月十七日

at 2004 10/17 23:17 編集

ハーディの「ある数学者の弁明」はほとんど数学の専門的な内容が載っていないのに関わらず、数学者のうちのあるタイプの典型の考え方に触れることが出来て面白い。

彼によれば、チェスの手を考えることも一つの定理を考えることも変わりないのであるが、チェスのような限定された中で手を考えることはつまらない。

同じように、定理においても、つまらないのと、美しいものがあり、彼はもちろん美しく興味深いものを求めたいのだ。

そう思うと、音楽のある種のものも、似たように表現できるような気がしてきた。

クラシックのある種の曲は僕から見ると異常なほど理論的でありながら、綺麗である。ただし、その綺麗さを理解するにはある程度の熟練と鍛錬が必要になる。

その点ロックとかポップスは単純で(カーペンターズとかビートルズとか、かなり凝っているものも多いけども全体的に言って)わかりやすい。

しかしわかりやすいからと言って、つまらないとか、美しくないとも限らず、シンプルでありながら非常に楽しめるものもあるのも事実である。

そういうのは、たとえれば、初等幾何とか、綺麗に通分できる分数とかみたいなもんだろう。

ロックでもポップスでも複雑なものも結構多いが、そういうのはだんだん飽きが来ることが多い。初等幾何の定理を組み合わせて、受験者を混乱させようとするような難問のようなものか。解けても、あまり解けたという気がしない。

幾何の喜びは、補助線を一本引いたら、見方が劇的に変わり、もう戻れない。ずっとそのことを考えてしまう。というようなものだろう。ポップスでも聴いたら忘れられず、何か感情が動くと思い出してしまうほど情緒に根ざすような曲がある。そういうものだ。

しかし、単純であるとか、複雑であるとかは、あくまで受け取る側の感受性に依存する。ある程度聞き込んでくると、ただのクラシックも、眠くならなくなってくる。

前置きがだらだら長くなったが、同じようなことが、情緒にもいえるのではないか。

私は自分を、他人に煩わされたくないと常に願ってきた。それで情緒生活を、人間関係をシンプルにと心がけてきたが、本当はシンプルシンプルと言って、便利な公式があるのにそれを使わないで全部そのつど計算しているような愚を犯していたのではないか。

僕の情緒は全部均等に発達しているわけではなく、まだらになっている。だから自分の中で葛藤が起きるのだが、本当は、自分の個性を守りたいからこそ、外界に適応する情緒の部分を積極的に成長させるべきなのかもしれない。

自分らしさと感じているものが、幼児期にだけ成功した情緒体験の強迫的な反復だとしたら、さっさと改善したほうがいい。