ろばの一日

at 2004 06/27 23:14 編集

今日は鍛錬メニューはせずに、午前中はパソコンのリストアをする。大したデータはないが、全部消えてしまうとがっかりする。

そのまま仕事へ。通勤中は洋書の「ジャッカルの日」のやさしくした版を読んでいる。時々つかえるがまあ読める。細かいところはあいまいなところが多い。一度日本語版のものを読んだことがあるから、余計読みやすい。

仕事中、穂村弘という人の本をメイドみたいな服の女性が買いに来て、萌えた。でもメイクやヘアスタイルが中学生みたいだったのが残念。

萌えたといえば、フランス文学の作家の全集を注文いただいた青年には、混んでいるときにもかかわらず、時間をかけ丁寧に接客させていただいた。いろいろ難しい話もあったのだが、はしょることなく、きちんと応答させていただいた。

そもそも本が好きで、働きたくないが本が好きだからそこでアルバイトをしているのであって、本が好きで買いに来ていただくお客様を、最優先したいと思っている。

それもできるだけマニアックな本を探しておられる方に力になりたいと願っている。
そういう方の役に立てたときは、たとえて言うならば、合格通知を届けた郵便屋さんのような気分である。

とはいえ人の話を聞かない横暴な方は、そもそも人間関係を結ぶことを向こうが拒否していると思うので、こちらも最低限の案内しかできないが。

それでも、客観的に見て、自分の店で注文するより、他の新刊書店を探したほうがいい場合は当店で注文いただければ幸いですが、と前置きして他店を案内している。

これはいけないことなのかなと思いつつ、次の機会に来店いただけることもあると考えている。

職場にもどんどん新しい人が入ってくる。あまり興味をもてない人も過去にはいたが、やはりどんなに普通の人でも個性があり、それがどのような個性で、どのようにして形成されたのかには興味がわく。

言い換えればこいつはどんなやつだろう、ということである。

ただし、やはり気になるのはどこかおかしい人、変わっている人であって、ただ普通にまじめな人、いい人にはあまり興味がわかない。

いやなやつならいやなやつで、どうしてそう振舞うのか、それとも僕が特にそういう個性を嫌いなのか、とか考えることも多い。

もちろんそれはお客様に対しても言えることである。普通の時は忙しくて考える暇もないが、あまりに突拍子もない変な人に会うと、考えざるを得ない。

今日も、よく来る異常な人が来ていて、よくわからないことを怒りながら聞いてくる。しかしこちらも今日は覚悟ができていたので、笑顔で、きちんと話を聞いた。そして、相手に逆に質問をして、真意を確認した。そうすることで、相手は一応納得したようであった。仮にそれで怒ったとしてもそれは相手が異常なのであって、警備員を呼ぶことができる範囲になる。

もちろんいつも正面から向き合う方法が有効とは限らないだろう。しかし、相手が暴れたりしない限り、こちらがきちんと手続きをくどいくらいに踏むという方法は有効なときが多いと思う。

別に実際に自分の正当性を振りかざすつもりはないが、いざとなれば、相手が不利な立場になる、ということを知っているだけで、ずいぶん落ち着いて対処することができた。

これから推測するに空手などをマスターしていれば、実際に実力行使をしなくても、ちょっとしたチンピラなら対処できそうにもう。

今日来た常連の異常者は、案内係の初老の方には決して近づこうとしないのだという。その案内係の方は、だから困るようなら私が相手しようかとおっしゃってくださった。

その方は年齢もあるのだろうが、やはりおのずと貫禄というか、品格があるのだと思う。他にも高年齢の社員を見る機会があるが、どうも油ギッシュというが世俗的で、あまり尊敬する気分にはならない。

異常者は異常者なりに、そういった事情を見抜くのかもしれない。


自分もくだらないアルバイトでいたいのに、みんながどんどんやめていくので、急速に古株になりつつある。背伸びしたって無駄だが、それなりに仕事において教えていったりしなくてはならないが、ぜんぜん仕事ができないので、悩みどころだ。

こだわり始めた文体論という視点だが、その応用範囲がかなり広いようで、興味深い。今日書いたような人間の個性を考える上で、新たな見方を導入せざるを得なくなるだろう。

今週のナンバーを読んで、サンボに関心が出てきた。特にコンバットサンボと呼ばれる殺人術に。格闘技を考えるときにルールというものの存在がクローズアップせざるを得ない。

そのことが文体論的にも何か意味を持っているような気がする。

三島由紀夫等は時間がないので明日にする。