久石譲を聞きながら記す。

at 2004 06/29 22:51 編集

今日はきちんといつもどおりの勉強をし、働く。休日も、だらだらするよりこうしてきちんと勉強するほうが結局休養になるのかもしれない。早速あさって実践してみよう。

ストレッチをしているときに呼吸によって体の内側から、筋肉の状態をコントロールできることに気がついた。息を吸い込むことで胸郭が開き、背筋などが変化するようだ。

しかし働いていて、何か根本的に空回りしている気がしてならない。明確な問題があるわけではないのだが、気づいていないだけで何かしらけてしまう位の勘違いをしているのかもしれない。そんな気が、ここ数ヶ月あるのだが、最近特に強くなってきた。

英語の本がだんだん難しくなってきた。文法事項の苦手な部分がはっきりしてきた。理屈ではわかっているのだから、後は慣れるしかない。

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三島由紀夫ボディビルディングをやったことにやはり意味があるように思える。ボディビルディングは復古的なようでいて、近代の西洋に生まれた競技なのである。

復古的であろうとするほど、それはナチスめいた秘密結社のパロディのような体を示し、ボディビルディングのような本来の日本の価値観にない美学を求めだす。

ボディビルディングの始まりは、ユージン・サンドウなる外国人であり、古代ギリシアの彫刻を見て、近代人の体格の劣悪なることを自覚し、ギリシア人のごとく肉体を美麗に鍛錬せんと鉄アレイによる肉体鍛錬法を生み出した。

西洋においても、精神に対する肉体の復権としてボディビルディングが生み出されたのだが、ボディビルディングの美しさと、ダビデ像の美しさはすでに異なっている。

スポーツをやる人ならば、ただ筋肉がつけばいいものではないことは誰でも知っている。

ギリシア人の肉体美はスポーツや武術の結果であって目的ではない。

ここで文体論的視点を導入すれば、三島は伝統回帰をしようとしても、すでに日本語のうちに、日本文化のうちに、意識されざる文体としての、身体の用法が変化してしまっていたのである。

その文体に無自覚に、復古を目指すならば、それはあたかも今作った映画なのにノイズを多くし、白黒にしてみた変な映画のように、似て非なるものが出来上がるだろう。

明治期以降ユージン・サンドウの最新の鍛錬法を導入したのは柔道の講道館であったという。

柔よく剛を制すといいながら、すでにそれを自身で裏切るような西洋流の思考法が導入されていたのである。

柔道が現在細かく体重別に分けられているのは、体重の差が試合の結果に直接に響くからであろう。柔よく剛を制すという理想はすでに破綻している。

文体論的には次のように言える。思想内容としての伝統は、容易には消えない。しかし、無自覚な思想の文体は変化する。

天皇に対する思想が、近代国家を語りうる西洋流の思想の文体に移し変えられたとき、それは独特の国家宗教としての天皇制として語られざるを得なかった。

そして文体が変わる前と後では、文体の後の人間は文体が変わる前の人間の見方が理解できない。もしくは自分の文体に置き換えてしか理解できないのである。

三島が日本文化の復古を目指していたとしても、決定的な思想、身体の文体が変化していた。そこで語られる「かつての日本」「あらまほしき日本」は、ファッショのパロディのようであらざるを得ず、武士道のエロティックなパロディでしかありえなかった。

今日はとりあえず結論だけを書いてみた。

何でもいいから書くこと、これが今の自分に必要な気がし始めている。