スージー・Q

at 2004 02/15 10:27 編集

一晩ネットで検索したり、
コンビニで働きながら
情報誌を読んでみたが、
ほとんど今の物件より
いい条件の物件が無い。

やはりここに決めるべきか。

うっかり忘れていたが、
今日は高校時代の飲み会がある日である。

・・・・・・・・・・・・・・・

蹴りたい背中」の帯を見ると、
蹴りたい背中とは乱暴な題名である。
しかし読んでみるとさわやかな読後感
うんぬんかんぬんとある。

思ったのは、蹴りたい背中がそもそも
らんぼうなタイトルなんだろうか、
ということ。

蛇にピアスとか、いくらでも
もっと乱暴なタイトルがあるんじゃない
だろうか。

どちらも、今は読む気がしない。
気持ち悪いくらいにみんなこの二作を
買っていく。

私はごく幼少の頃から本を読み
ひたすら本を読みつづけてきたけれど、
結局文学にはまりつづけることは
できなかった。

文学と呼ばれるもので熱中したのは
芥川や太宰のごく一部くらいなもので、
あとは当時から知的好奇心
としてしかよんでいない。

結局人間の機微を文学に見出すことは
できなかった。文学にいい年してはまれる
人は、よく人間を知らない人ではないのか。

僕が惹かれるものは別に人間の機微ではないし、
人々が文学に何を求めているのか、よく
わからないけれども。

面白い話しか面白くない。

少なくとも私は。

でも文学とはそういうものではなく、
何か別の価値観に従っているのだ。

僕はこれからも文学を認めることは無い。
それどころか、いわゆる芸術を認める
ことはないだろう。

芸術を鑑賞するセンスも無いし、
そういうことを学べる裕福な家庭に
育ったわけでもない。

ただ、自分の興味のあることだけを
追求していくだろう。

芸術とは先人の偉業を踏まえ、
高度な技術を要し、
それを鑑賞するには、ある程度の階級
に生れれつかないといけないのだ。

だから、僕は生涯、芸術を理解できないし、
しようとも思わない。

芥川賞も、ブッカー賞も、
全然関係ない。

ポピュリズムが甚だしい世の中のせいで、
僕はずっと芸術とは個人のセンスで
理解するものだと思っていた。

だがそれは違う。

僕は貧しく、芸術を理解する能力
が欠けている。

だから、自分のセンスの赴くままに
進んでいこうと思う。

茂木健一郎氏の日記を読みながら、
彼と私の違いを考えながら、
この日記を書いた。